昭和40年4月27日 神奈川県に生まれる。体重2400gの未熟児。父親が大の三国志ファンで孔明様の名前を頂きました。
小学校の3年生の時にサッカーをはじめる。以来大のサッカー好き。
中学校のサッカー部で長身(中2で170cmでした)と体の柔らかさよりコーチの勧めでゴールキーパーに転向。
高校ではワンダーフォーゲル部へ入部。元々父の影響でアウトドアが好きだったので。
高校生時代はろくに学校にも行かない(登校拒否と言うわけじゃない。)。授業はろくに受けない。バイトとスキーと登山に明け暮れていました。この頃やっていたバイトは花屋。花束とか作っていました。ケーキ屋さんっていうのもあったっけ。
高校卒業して一浪して東京電気大学電子工学科に入学。他の大学は全部落ちる。
大学に行ってもろくに授業に出てなかった。昼間はゲーセンかバイトか秋葉。夜はバイトかマージャン。 たまに仲間内でサッカー大会。やったバイトは数知れず。主な物を挙げてみると、印刷屋さん(大日本印刷)、土方、発掘調査員、 交通量調査員、ゲームプログラミング、レーザー屋さん(結婚式とかでレーザーで 演出するときの奴のプログラミング)、バラック組み立て、測量補助(これは結構長くて大抵の事はわかります。)、ビル清掃、家庭教師、バッタ屋の仕入れ、花屋、ケーキ屋などなど。
年間のうち3カ月強は妙高高原赤倉スキー場に行ってた。赤倉の「銀明荘」さんには本当にお世話になりました。
あまりのスキー漬けの為に大学2年の後期試験を受けるのを忘れて惜しくも単位が足らず留年。大学2年を2度やることに。
大学の研究室は「生物電子研究室」。担当は「合原一幸助教授」。この先生は日本のカオスの第一人者であちこちの新聞雑誌等に出てます。卒論のテーマは「免疫ネットワーク」。体内の3大ネットワーク「能神経系」「免疫系」「ホルモン分泌系」のひとつである免疫ネットワーク をモデル化しPC上でシュミレーション等を行う。論文作成は協同研究者のS氏が担当し私はおもにソフト作成。
大学卒業後大手「ミネベア」に入社。理由はミネベアの東京事務所が神田にあって大学のすぐそば、学科長(当時は町教授だった。)に薦められてすぐそのままGパン・Tシャツの姿で会社訪問、そしたらその場で内定をもらいました(就職難の今の学生達が聞いたら怒られそうです。)。
配属は藤沢にあるメカトロニクス事業部。ミネベアでやったことは電卓のハード&ソフト、基板設計などなど。自分の仕事の空き時間にawk+DBで部品表作成スクリプトを作ったりもしてました。DBは独自実装。今でいうBarkleyと似たものです。Lightweight Languageは学生のころから大好きでしたので。
サッカー部を設立し監督兼部長。たまに長後のスタジアムで夜間練習を行ってた。
入社した年の6月に結婚。独身寮はたった2カ月居ただけ。 新居は茅ヶ崎市内の2DKのアパート
あまりの給料の安さにサイドビジネスとして「ワンチップマイコンのソフト開発」を始める。 仕事は後で勤める事になる「テクナ電子工業(株)」からおもに頂いていました。ソフトはほとんどがアセンブラ言語。
ミネベア入社後4年ほど経ってテクナの社長の希望によりテクナ電子工業に転職。 勤務地は調布。茅ヶ崎からじゃ通えないので東村山に3DKのアパートを借りることに。
テクナ電子では医療用小形計測機器の開発に従事。ソフトウェア・ハードウェアの設計から営業のサポートとして日本中飛び回ってました。
「睡眠時無呼吸モニタ」は全く新しい測定器として、また「血中酸素飽和度計」は世界最小最軽量として当時の業界をにぎわせました。
入社後2年目ごろにテクナが新しく埼玉県に工場を購入。技術陣の移転も近い!と判断して工場から車で10分程度のところに土地と家を購入。しかし技術陣はそれから1年以上調布のままで、毎日車で中央高速通勤。
技術陣も平成8年の9月に埼玉に移転。通勤も楽ちん。 ところが平成9年2月ごろに9年度の年棒等で会社と折り合わず、更にいろいろな不満(忙しすぎだったのが一番の不満)が爆発して退社することに。
しかし各種業務の引き継ぎのためにしばらく通い4月30日付けで退社しました。
そしていまさら他の会社に転職する気にもなれず、長野県原村の「(株)電脳工房」の北川さんの勧めで独立することを決意。先行き不安のまま平成9年5月1日「アイキューカンパニ」を設立。
新しいことにもどんどんチャレンジして行きますのでどうぞ宜しくお願い致します。

(平成9年5月作成、平成21年10月一部加筆)

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